My Name is Nobody

112.jpg
テレンス・ヒル。ににに、似てねぇ~((((( ;゚Д゚)))))言われても分かんねえ~。

『ミスター・ノーボディ』という映画がありまして、その監督であるトニーノ・ヴァレリが10月13日に亡くなられたようです。

僕は西部劇もマカロニも数えるほどしか見たことがないのですけれども、この『ミスター・ノーボディ』は今まで見た映画の中でもかなり好きな映画です。何が良いって、主演のテレンス・ヒルが文句なしにかっこいい。彼が演じるのはノーボディ、伝説のガンマンであるジャック・ボーレガード(ヘンリー・フォンダ)に憧れているぼろぼろの風体をした流れ者で、腕は立つのに悪党に対しては殆ど銃を抜かない、その上何を考えているやら分からない変わり者です。説明が出来なさ過ぎてアレですが、とにかく無茶苦茶かっこいい。笑ったときなんかもう最高。

この映画は“最後のマカロニ・ウェスタン”と呼ばれることもあるようですが、個人的には映画史上の位置付けよりも映画内における“西部開拓時代の終わり”を時間とともに感じさせるような雰囲気がたまりません。オープニングはド田舎の床屋からはじまり、如何にもウエスタンな街に赴き、見渡す限りの荒野を経て、そして遂には鉄道に乗って大都会ニューオーリンズへ、極め付けはボーレガードからノーボディへの手紙です。そうした一時代の終わりを、なにより爽やかに描いたところが本作の最大の魅力の一つだと思います。

| 雑記 | CM 0│ 2016. 10. 26(Wed) 23: 43 |

最近見た映画とか2

ネタバレがあるような、ないような。


・インサイド ヘッド
まー号泣ですよ。ただし娯楽には向いておらず、エンターテイメントとしては褒められたものではない。後半までとにかくもどかしさや痛々しさ、下手をすればイライラするような感覚まで抱かされる内容である。ただもう、終盤からは涙が止まらんかった。声を上げて泣きそうだった。
極めて適当なことを言ってしまうと、この映画の大半は主人公ライリーの感情の移り変わりとその発現(行動)を、我々が感情ではなく理性を基にして観察している、という状況にある。けれどもライリーの頭の中の5つの感情は、あたかもライリーとは別の人格が勝手気ままに振る舞っている(≒感情の暴走)ようで、どんどんと望ましくない方向へ物事が進んでいってしまう。理性的立場からすると「なんでそうなるのッ」と言いたくなるようなもどかしさが胸に湧き起こるのだ。
でもって、それが映画の終わりに向かって腑に落ちるように解消されていく。内容について言葉足らずも甚だしいが、説明できないモノは仕方がない。ただ、様々な経験の蓄積が、絶え間ない人格の形成や感情の制御(抑制ではない!)の仕方、理性の発達に繋がっていくこと、それらが不可分でありながら常に合理的に統一されているわけではなさそうだということ、そういったことを絶妙なタッチで示唆している映画だなと思う。哲学的ですねと言われれば、そうですねと答えざるを得ないんだけど、哲学という言葉で片付けるにはあまりに愛情に溢れた映画なのだ。
ライリーの感情の喪失や心の変化、成長を通してこの作品からは、キャッチコピーの通り「この物語はこれまでの、これからの、あなたの人生の物語でもあるんだよ(改竄有り)」ということがしみじみと伝わってくる。冒頭の「11歳の女の子に一体なんの問題があると言うの?」というようなフレーズは、言い換えれば「老若男女、どんな人間にも問題はあるもんだ」ということだ。哲学的な要素を含みながら押し付けがましくなく、愛を以って今を生きる人の様々な想いを受け入れてくれる、肯定してくれるような懐の深さがこの作品にはある。なんとなく、この映画は常日頃から上手く行かないもどかしさや漠然とした不安を抱えている人にほど、琴線に触れるところがあるのではないかなあと思ったり。

・LEGO ムービー
すべては最高です。建物や車などの人工物だけではなく、視界一面の砂漠やうねる海面、爆発などありとあらゆるものがレゴブロックで表現されている。これだけで鳥肌モノである。ストーリーもレゴらしさを踏まえた素晴らしいものであるし、パロディ要素も遊び心満載で誰にでもお薦めできる作品。なお地味に感動だったのはスタッフロールの背景のレゴだったりする。

・マッドマックス 怒りのデス・ロード
理屈じゃない映画。めちゃめちゃ人を選ぶ作品だと思う。正直僕は好きじゃないのだが、「これ以上ない最高傑作だ!」と感じる気持ちも分からないでもない。狂気と迫力に満ちていながら意外と(失礼)みんな理性的な部分があって、悪が絶対悪じゃない曖昧さがあって、最初から最後までぶっ飛んでるのに妙にリアルな世界観がある。おそらく事実として、地球上のどこかでこれと似たような状況があるのだろうなと思うと痛ましい気分になる。

・スチームボーイ
映像美がウリだが、他に特筆すべきものはない。

・アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン
覚えがない。ヴィジョンが出た時はちょっと興奮したかも。

・グリース
青春ミュージカル映画。40年近く前の作品だが結構聴き心地のいい歌が多く、ストーリーやダンスなんかの古臭さに味わいを感じられるのならば楽しめるだろう。オリビア・ニュートン=ジョンがかわいい。

・タップス
若かりしトムクルーズとショーンペンを拝見できる映画。

・荒野の決闘
西部劇の傑作。原題は『My Darling Clementine』、“いとしのクレメンタイン”。説明不要、というか見ないと分からんあの風情、空気感の描き出し方が素晴らしい。

・ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!
ウサギの造形が不気味すぎる。いや、人間もだろと言われればその通りだが。そして、そーゆーのを全部挽回してしまうグルミットの圧倒的かわいさ。ストーリーは中々良かったが、特筆すべきはやはりアクションシーンだろう。犬と犬との対決は色々と工夫が凝らされていて見ものである。

・ホビット 決戦のゆくえ
3作見るのに1年くらい掛けたんじゃなかろうか。突っ込み所満載で某主要キャラクターに感情移入できないのが致命的である。ただ、冒険を終えてビルボがホビット庄への帰途についてからは自然と涙があふれてくる感動がある。ついでにスタッフロールが冒険の終わりの余韻を残す感じがしていてステキ。

・ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション
安定のおもしろさ。ただ個人的に気になったのは、敵方のメンバーは元スパイばかりのはずなのに普通に雑魚いところ。構成員相手に毎回互角だったり頭を使わなきゃ倒せなかったりでは爽快感は得られないか。

・ターミネーター:新起動/ジェニシス
シュワちゃんをみるためだけの映画。

| 雑記 | CM 0│ 2016. 07. 22(Fri) 01: 40 |

最近見た映画とか

最近とか言いつつ、見てから半年以上経ってる気がしないでもない。全部テレビ(CSとか)でやってたヤツ。
以下ネタバレばかりだが、タイトルしかメモしていないので記憶にないものが多数。


・デビルズ・ノット
アメリカ合衆国で実際に起きた殺人事件のドラマ化。夜中にWkipediaか何かでそういう事件を読んじゃう系の人はご存じだろう。小説よりも奇な事実を元に描いたものなので、最後(現在において)まで謎だらけでまったく腑に落ちない。加えて警察組織の杜撰さと一般市民の理不尽さに何とも言えない気分になる。個人的には、証言VTRに出てくる少年の異様さが、この事件の不気味さに拍車を掛けていて印象に残る。

・はじまりのうた
キーラ・ナイトレイのための映画かと思ったが最後にLost Starsでアダム・レヴィーンが全部掻っ攫った感がある。キーラとプロデューサーとの距離が近すぎて「絶対なんか間違い起こすやろ…」と視聴者(主に私)をやきもきさせるシーンがあり、そこがなければ普通にいい映画なのだが。

・ユージュアル・サスペクツ
「途中で犯人が判った」「最後のどんでん返し」云々、サスペンス映画によくあるフレーズだが、この映画に関してはその判断が正しいのか否かを自らが吟味する必要がある。世間的にはそのどんでん返しがウリで、一般的な娯楽として見る人にとってはそこがゴールなのだが、そうではない人にとってはドツボにハマるような構成になっている二重の意味での秀作。僕は…そのうち考えるのをやめた派。

・トロピック・サンダー 史上最低の作戦
ハリウッド的でシニカルなトコも残酷描写もある全編コメディな映画。人を選ぶ。僕個人としてベンスティラーとジャックブラックがそんなに好きじゃない(致命的)ので、笑えるところはあるがまあそんな感じ。ただロバート・ダウニー・Jrの劇中での迷走ぶりとトム・クルーズの怪演は見もの。

・バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
表現者の苦悩、のようなものにみえた。なんか、一般人や批評家(=非表現者)がこういうものを賛美するにしても批判するにしても、「君らにはどうせ分からないだろ」って感じがしてズルいんだよ。なんか、ひどい被害妄想だな。役者としてのストイックさやそれが投影された刹那的な生き方とか舞台上での自殺を決意してからの聖人君子ぶりとか、破滅的なモノを美化しすぎなんじゃないかとも感じるが、これも一種のジェラシーだろうなあ、そういう次元で生きてない人間の。音楽家や作家などなどの卓越した表現者の幾人かが、自ら命を絶つ選択をする理由もこういうところにあるんだろうか。他にいろいろ思ったことがあったはずだが如何せん覚えがない。

・ナチュラル
ロバートレッドフォード主演の野球ファンタジー。見終わった後は凡庸なスポーツ映画だと思ったものだが、今しがた何方かのレビューを見てちょっとばかし感心した次第。どういうことだってばよ。

・ガーディアンズオブギャラクシー
痛快娯楽SFファンタジー冒険活劇。おもくそ陳腐な言葉を述べたが、個人的にはいままで見たマーベル作品の中で群を抜いておもしろい。言うても最近のマーベル作品の2割も見ていないだろうが。最も評価したいのは、中弛みするような部分がないところである。Xメンやアイアンマン、スパイダーマンなんか見てると「この辺は退屈な場面だなーはよ次の展開に行かんかなー」などと思ったりするのだが、この映画にはそれを感じさせない不思議な勢いがある。

・ルーシー
スカーレットヨハンソンが好きな人は見るといい映画。

・オズ はじまりの戦い
覚えがない。陶器の少女はかわいかった。

・マンマ・ミーア!
ABBAの曲をふんだんに使ったミュージカルの映画化。ABBAを知っている方なら劇中歌の多くに耳馴染みがあるだろう。キャストは豪華なのだが、ストーリーといい肝心のミュージカル部分といいイマイチな出来。この映画はともかく、ABBAのベストアルバムであるアバ・ゴールドを一家に一枚は常備すべきである。

・マレフィセント
アンジー無双。アンジェリーナジョリーの愛情と美しさに酔い痴れる映画。原作を知らないからか、ちょっと感動したのは内緒。

・ワイルド・スピード SKY MISSION
ポールウォーカーのことは知らないが、最後のシーンがすべてだろう。内容には覚えがないがそれでも構わない。

・エクスペンダブルズ3 ワールドミッション
覚えがない。出演者の豪華さはヤバい。

・フューリー
ブラピ主演の戦争映画。シャイア・ラブーフは雰囲気が違って良かったと思う。他に何も思いつかん。

・魔法使いの弟子
『ファンタジア』のパロディシーンしか覚えがない。

・ペンギンズ from マダガスカル ザ・ムービー
テレビ版も好きだが映画もまた素晴らしい。90分という時間によくまあこれほどギャグを詰め込んだもんだと感心する。ストーリー的には相当に深刻な状況に陥るのが少しばかり衝撃的であった。あと、隊長が挫折するシーンも衝撃的だった…。

・メイズランナー
覚えがない。迷路(=maze)要素は全くなかったと思う。

| 雑記 | CM 0│ 2016. 07. 19(Tue) 23: 11 |

戦争を想像することについて

戦争をリアルに想像できない人 - gonzales66の日記
戦争をリアルに想像できない人のつづき - gonzales66の日記
の二つのエントリを読んで思ったこと。

想像力を、誰かさんの立場を自分の身に引き付けて考える力ということにします。
前半部分は断りがない限り前線に従軍するような兵隊さんを適当に想定しています。


想像力の大きさ(射程距離)に関しては、個人間や世代間に明確な差が有るとは思いません。
どちらかといえば、上の世代(ここでは戦争を体験していない世代から)が、その想像力を働かせるつもりがなく、その機会を得ようとしないため、そのような傾向が下の世代にも影響しているに過ぎないのかなあなんて思います。

kanonの話で思うのだけれど、それはゲームを通すことが想像する契機になってるのかなと思うのです。
ここでゲームを通すという意味は、小説でも映画でも何でもよかったりするんですが、大事なことはその内容が我々の日常の行動や思考に「身近」であることだと思うのです。登場人物が我々の思考と似通っていたりそういった行為をしたり、また我々が望ましいと思うようなことを行ったりすることで彼らに共感するのです。他にもあるはずなんですが言葉にならなかったり。そしてそういう契機があるから想像力を働かせ、相手の立場を考えることができるんじゃないかと思います。

前提として、「身近」って意味を構成するものは、私たちが生まれてこのかた触れてきた世界―国家間の状況から、いままで会った人々の思考や行動、判断、立ち振る舞い、話し方、トーン、顔の筋肉や目の動き、仕草などのミクロな話も含む―にどれだけ近似かということを指します。ここでいう世界というのは各個人にとって当然に違うものなんですが、そういった前提を無視して「彼には想像力がない」と言い切るのはいかがなものかと思うのです。

「想像せよ」と言って提示された内容が、受け手(によって経験されてきた世界)と近しければ近しいほど、大きな共感や感情移入、そして想像といった、現実にはその場に提供されていないものを彼は生みだすことができるのじゃないかなと思うのです。
結局、想像力は各人によって各々別の限界があるということになりそうなんですが、そういうことです。けれども、各人の体験などは流動的なものであって、その世界はいくらでも変動しえます。彼の中で経験されてきた世界が変動すれば、想像できる範疇もむろん変動しうるということです。
というわけで今回もまたなんの根拠もない記事を書いておるわけでございます。

そして、これを戦争の話に引き付けて考えると、全然想像力が働かないことになります。だって、私のような比較的若い世代にとって、戦争が完全に非日常で、それに共通するようなものに触れた記憶というのは、私個人としては中学生のときに老人福祉施設で戦争の話を聞かせてもらったり、高校生のときに広島の平和記念資料館を訪れたりしたくらいです。
「~したくらいです」ってあれ見てその程度の感情しかもたなかったのか消えろやウンコ野郎とか言われそうですが反論できませんほんとすんません。

んで私個人の感想としては、それらは生々しく悲惨な事実であるのですが、リアリティがない。リアリティというのは禁句かもしれませんが、現実に引き付けて、自分の身になって思考することができないというようなことです。
ちなみに戦争映画とかで血が吹き出したりカメラワークが妙にぐらついたり画面に土がついたりして臨場感があったり、銃弾とかがチュンチュン飛んでくるシーンなんかは漠然とリアルだなーとか思うときはありますが、このリアルはどうでもいいリアルのほうです(なんじゃそりゃ)。いや実際の現場の想定の手助けにはなるかもしれないけれど、想像力の話とは違うかなと。


もう一つ、人間は、限界状況よりも、理想状況のほうがずっと想像しやすく、またそうする傾向のある生き物だということです。これは人間の本性的な部分です。絶えず「戦争」や「死ぬこと」について考えるよりも、ずっと自分の好きなことを考えるほうが自然であり、なおかつ人は「死」などの限界状況について考えるのを回避したり頭の隅に追いやったり誤魔化そうとします。哲学者をのぞけば多くの人々がそうだと思います。kanonへの共感は理想状況でもすこし説明がつくかと思います。
既述に関連した話として、我々は戦争に近似の体験をしていません。誰かに命を狙われたり、緊急避難や正当防衛が成立するような状況にたった人は別として、そういった経験を日常どころか一度も経験したことがない人が大部分ではないでしょうか。
背嚢を背負ったりヘルメットを被ったりなんかは、小学校のときにランドセルを背負って1時間通って学校に行ったり、中学校の通学でヘルメ被ったりなんかするわけで、外形的には本当になんとなくですが似ています。でも決定的に違うのは、その状況です。通学は戦争ではありません。確かに事故死する可能性や事件に巻き込まれる可能性が0とはいいませんが、戦争の、乃至それと近似の状況とは全く違います。

銃を突きつけられたり、銃を突きつけたりする現場は、客観的には想定することができるでしょう。ですが、そんなことはあまり問題ではなく、そのような限界状況に当事者として立たされたとき、我々がどう思考し、どんな判断を下し、いかなる行動をするのかが、全く想像できないのが問題なのです(私だけかもしれませんけれど)。

私が敵に対して引き金を引くのを想定したとき、私は何を思って引くのでしょうか。とまどいながらでしょうか。懺悔しながらでしょうか。それとも何も考えまいと努めているでしょうか。或いは、殺すことが快楽になるよう暗示を受けているのか、もしくはそう自分に言い聞かせながらでしょうか。
もしかしたら、隙を見て逃げようとしたり、自棄になって取り返しのつかないことをしたりするかもしれません。そうした状況に置かれた時、自分がはどんな思考をするのか見当もつかないのです。


話がずれます。
結局私もこうの史代さんを引き合いに出すわけですが、『この世界の片隅に』を読んで、私の心は揺さぶられました。彼女の漫画に登場する人々は、あまりにも生き生きとしていました。その漫画の世界には、私なりのリアリティが存在していました。つまり、共感や感情移入ができる、私にとって想像可能な世界が広がっていたのです。広げてくれていた、といったほうが適切かもしれませんが。
そして、その世界の中には、原子爆弾が描写されていました。

だから、私にとって衝撃だったのです。

あの原子爆弾の描写が、私にとって想像可能な世界を生み出すものの内に含まれていたということが、それが、どんなに大切なことでしょうか。

先ほど「生々しく悲惨」ではあるがリアリティがないといったのは、自分でもよく分かりませんが、そういうことなんだと解釈しています。人間が「そこ」に映っているのにリアリティがないとは何事だと、自分でもそう思います。でもあのときは、悲惨な過去の事実、けれど、私の世界とは疎遠でつかみどころのない事実だと捉えられました。
ところが、あの漫画の中で原子爆弾が描写され、戦争に対する心情が吐露されたとき、私は間違いなく共感していたのです。

若い世代では日中戦争も三国志と同じ感覚なのだろうか?


という言葉がありましたが、私にとっては同じだったかもしれません。

私はこれまで、戦争による死や貧しさが、そのままそこに暮らす人々の人生の不幸せを決定すると頭ごなしに決めつけていた節があります。ですが、あの漫画を読んで、そういった感覚はずれているかなと思いました。
その感覚は幾らもあって、歴史で中世の農民たちが役人に虐げられていたなどと聞けば、それだけで彼らの人生はみんな暗く辛いものだと、不幸せなものだったと想定していました。
ですが、そうではないのかもしれないのです。
それは原子爆弾の投下による被害に遭った方々にも当てはまるのではないかと感じます。
原子爆弾が炸裂した瞬間、彼らの人生が全て不幸せだったことになるのでしょうか。
私は、そんなことを疑問にさえしませんでした。彼らは、悲しまれる存在であり、不幸な人々であったと、ただ、本当に単純にそう思っていました。
当時の人々の日常には戦争が影を落としていました。それは間違いではないと思います。ですが、だから彼らの日常は闇に包まれており不幸であったかと、彼らは未来永劫ただ悲しまれ続けるだけの存在かと言われれば、違う、と今の私は答えるでしょう。

三国時代には、農民の多くが流民化し、各国において戸籍の数の減少がひどい時代でした。それは飢饉や絶えない戦争が原因で発生したのだろうと思います。
だからといって、あの時代を必死に生きようとする彼らを、全て不幸な存在だったと個人的に決めつけるわけにもいかなくなったということでもあります。その点でいえば、私にとって日中戦争も三国時代も同じになってしまうといえるのかもしれないのです。

結局、自分が何を言いたいのかがまとまりません。
今一度資料館に行ってみて、そこに映っている彼らを、生々しくも生き生きとした姿として私が捉えられるかといえば際どいところでしょう。
ですが、これまで戦争で死んでいった数多の人々が、無数の人生を実際に歩んでいたことを、それこそ私の日常のように便所にたったり居間でくつろいだり、早起きして朝日を浴びたり、家族との団欒を過ごしたり、布団にくるまって寝息をたてたりしていたことを、そのような日常を通して彼らがどんな想いを抱きながら日々過ごしていたのかを、どのような時代であれ想像せずにはいられないのです。

| 雑記 | CM 0│ 2009. 06. 10(Wed) 02: 10 |

死刑について

いつも通り俺様理論が展開されますので読む価値はありません。

殺人による死刑に値する犯罪が行われたことを想定する。

◇社会契約と手段としての死刑
社会契約は契約当事者の保存を目的とする。目的のための手段として、他人の犠牲において自らの生命の保存をしようとするかわりに、必要な場合には自らの生命の犠牲により他人の生命を保存しなければならない。各人の合意によって設立された国家の統治者が「お前が死んだほうが国家のためだ」と言ったとき、彼は死ななければならない(ほんまか?)。
・合意は、自分が殺されないために、自分が殺したときには死刑になることを承認するというものである。
・「社会的権利を侵害する悪人は、すべて、その犯罪のゆえに、祖国への反逆者、裏切り者となるのだ。彼は、法を犯すことによって、祖国の一員であることをやめ、さらに祖国にたいして戦争をすることにさえなる。だから、国家の保存と彼の保存とは、両立し得ないものとなる。」
「そして、罪人を殺すのは、市民としてよりも、むしろ敵としてだ。彼を裁判すること、および判決をくだすことは、彼が社会契約を破ったということ、従って、彼がもはや国家の一員ではないことの証明および宣告なのだ」
結果殺されるか、追放されることになる。
・処刑は主権者に属するのではなく、授けることはできるが彼自ら行使できる権利ではないとされる(←よくわからん)。
<参考・引用:ルソー著、桑原武夫・前川貞次郎訳『社会契約論』岩波文庫、1954年 pp.54-55>

・自己の生命の保存のために死刑は正当化できるか(≒特別予防)
凶悪犯罪者が一般市民と完全に隔離することができるならば(一般社会で再び犯罪を犯す可能性がないのならば)、正当化できない可能性がある。
・被害者の救済の仕方は不明

(※こっからもっとトンデモになります。戻るボタンでお戻りください)

◇現代的な手段としての死刑とその目的
上述と同じことを意味しているように思われるが、ここでは現代的・現実的な意味で用いる。また、更正や再教育、謝罪や反省の念の自覚といった刑罰の一般的な役割には触れない。
ⅰ仇討ち防止
ⅱ一般予防
ⅲ特別予防
ⅳ犯罪と刑罰の均衡

ⅴ被害者の感情の顧慮
ⅵ被害者遺族の感情の顧慮
ⅶ社会通念上の要請の達成

ⅰ 国家権力の刑罰権独占
国家の要請。市民から刑罰権を取り上げ、国家のみが刑事裁判を行い刑の執行者となる。立憲民主主義国家の前提とされ、市民個人の報復権や処罰権の行使は認めず、それらを防ぐ。そもそも本当にそれでいいのかというのは置いておく。
ⅱ 刑罰の威嚇効果
刑罰には、見せしめによって一般市民による類似犯罪を未然に防止できる効力があるという考え方である。
加害者が犯行するにあたって、「この行為に及んだら、死刑になる」というように考えるのは稀だろう。たとえそれがそのとき、避けることができる行為であったとしても、あるいは自分でもその行為の理由がよく分からなかったとしても、自らの行為の自由なひとつの選択に過ぎなかったことにかわりはない。
悪質な犯罪者が、その瞬間に刑罰の軽重を考慮し、そのことによって彼の行為を加減したりするだろうか。私は彼らが押並べて精神に支障を来たしているという偏見を抱いているので(※一般的な(?)殺人は想定しない)、それらが彼らの行為の際になされる余地はないと考えている。そして、一般市民(ここでは日本国民を想定)については死刑の威嚇効果なぞなくともそのような凶悪な罪を犯さないとも考える。
ⅲ 再犯の防止
上述
ⅳ 応報理論
どう足掻いても均衡しない。加害者に対して如何なる残酷な刑を科そうが彼の犯した罪に及ばない。それは、人を殺すこと―人が人に犯しうる最大の権利侵害―がいかに特殊であるかを示す。加害者に被害者の人生をそのまま償わせることはできず、被害者の死ぬほどの苦痛と恐怖とは加害者への再現可能のものではない。社会に対する影響をも加味すれば、3重の罪を背負うと仮定される。
ただし、対等な命としての償いは想定できる。つまり、加害者の命を1、被害者の命を-1(-α)と極端に抽象化して仮定すれば、それらを相殺できるというものである。加害者も結局死ぬわけだから-1+(-1)と考えて-2になるともいえなくともない(大抵いわない)。この数字化の想定は直観に反する場合が多かろう。また、複数殺人の場合では相殺が成り立たなくなる。
もっとも、応報の考え方そのものは、我々の正義に対する直観にある程度合致することは言うまでもない。さもなければこれほど影響力がある理由を説明できないだろう。

ⅴ 被害者について
我々が最も尊重しなければならないものは被害者の名誉である。現行の死刑制度がそれに適っているといえるかは不明である。
(名誉 ③道徳的尊厳、すなわち人格の高さに対する自覚。また、道徳的尊厳が、他人に承認・尊敬・賞賛せられること。 広辞苑より引用)
ⅵ 遺族について
被害者遺族の感情は、被害者の次に考慮されるものだと思う。ただし、その間には天と地ほどの差がある。
死刑が被害者遺族の感情を和らげることはあるが、それが第一義的なものになってはならないと考える。
ⅶ 社会通念
一般的に遺族のそれと同程度。これは優先順位ではなくどちらがより認識されやすいかの問題に過ぎない。「社会通念に照らして…」というような判決文にみられる文言の意味内容は無視する。
イギリスの王立死刑問題委員会で、デニング卿が
「重罪に対する刑罰は、それに対して市民の大多数が感じる激しい反応を適切に反映すべきである。刑罰の目的は、抑止的あるいは改善的あるいは予防的なもの以外にないと考えるのは誤りである。いかなる刑罰であれ、それを正当化する究極の根拠は、刑罰が犯罪を抑止することにあるのではなく、刑罰が犯罪に対する社会の強い非難であることにある。」
と述べた。半分は賛成で、半分は反対する。市民の感情は移ろい易く扇動され易い。死刑の正当化を社会通念に多く求めるのは適切ではない。
法律は良心を体系化し、その範囲においては道徳的権威を有するが、良心は誤りうるものであるし、法律も正しさを保証できるとは限らない。法律の中に或る道徳的判断が保持されていても、それは今なお社会で一般的に支持されていることにはならない。時代の道徳観に合致しない法律は、しばしば廃止によってではなく、無実効性のゆえにその効力を失った。したがって、一般の意見の一致するところのみが国家公共の道徳秩序にゆだねられざるを得ない。
ここでいう一般の意見は一般意思に近く解釈される。世論が法律を形成するという見解もあるが、現在においてこれがあてはまるわけではなく、また世論が道徳的観念・良心の構成や発現であるとは必ずしもいえないのは多分に認められるところであるからだ。世論(多数者)の意見が誤謬に満ちている可能性があることを我々は知っている。
従って国民感情が道徳の正しさの証明乃至表明でない限りそれを優先するいわれはない。それを判定するには、普遍性や変更不可能性を考慮せねばならず、本当にそれが存在すると考えるのはあまりに理想主義に傾く。

◇私見
応報理論は適切ではない。殺人の多くは死をもってしても償いきれない行為であると考えるためである。
被害者の顧慮が最優先になされねばならない。死刑が各人の合意に基づいた、また彼らの処罰権を国家に授けた状態であるとはいえ、肝心の処罰権が発動されるのは個人の権利が侵害されたときである。従って被害者の名誉の回復が第一義的に顧慮されるべきである。
・名誉の回復のために
名誉の回復は加害者が死ぬことではまず足りない。ただしこれは死刑を廃止する意図を有するものではない。死刑が彼の個人的責任によって惹起されるのならば、その責任には被害者の人生の回復義務をも含まれると考える。それには彼の生前の稼得能力に限らず、為し得たであろうすべての社会的利益の実現を含む(拡大解釈すれば地雷除去さえ含まれることになる)。
現実的に社会でそれらを行わせるのは多くの場合不可能なため、その評価は一定の行為の要求と金銭的価値に換算するのが仕方なくも妥当と考えられ、それらは彼自身の行為によってすべて創出されなければならない。加害者の行為によって断念せられた被害者のすべての行為を加害者の一身に基づき負担させることを想定するからである。その際に彼の身体的権利が一定程度制限されること(強制労働・臓器売買など)は当然に許容される。彼がそれらを果たすまでに死んでもよいかは不明。
月並みな言葉だが死刑は被害者に対する償いにはならない。命と命とでは対等であるが、被害者の人生を絶つことと加害者の人生を絶つこととの間には大きな隔たりがあることに、ほぼ全ての人間が同意するだろう。死刑は遺族や社会に対して憤怒を鎮静化させ平穏をもたらす効果はあるが、それは中心的なものではなく、また、被害者の名誉の回復が死刑で達成される、乃至その手段として死刑は最も合理的だと短絡的に考えられてはならない。
大衆が死刑を望むのを三段論法では、
1 Aは凶悪な殺人を犯した
2 凶悪な殺人を犯した者は死刑に処される
3 Aは死刑に処される
と表現できる(あってんのかこれ)。この際に欠如するのは被害者の顧慮である。大衆がそれを無視する―つまり彼らが彼ら自身の感情のみに基づいて死刑を主張する―のと同時に死刑もまたそれを無視している。加害者が殺されるのは事件に「終止符」が打たれたことを意味することもある。
再びいうが、加害者への憎悪や社会不安といった国民感情が死刑を根本から正当化するものではない。更に言えば、死刑による遺族の感情の慰撫ですら二義的なものに過ぎない。それらが死刑を正当化するのは不可能だと言っているわけではない。我々が絶大な怒りと憎しみを抱え表明し死刑を実現させたところで、被害者の名誉は決して回復するわけではなく、それどころか事件とその内容とを風化させる危険性さえ孕んでいる。
だからといって、私の頭に画期的な措置が思い浮かぶわけではない。現状に必要なのは、加害者が罪の償いをする際に、最も合理的で我々の直観に合致する処置は何であるかを再考することだ。
また、国家権力に掌握されている刑罰権の実現が、極めて秘密裏に行使されほとんどその実態を知られていないのは異常な事態である。死刑が如何なるものかをまず知る必要があるし、そうしないと正しい判断を下す経緯を確保することも難しい。
私の理想を言えば加害者が真に反省し謝罪しその罪を自ら償うようになるというものだが、これらを実現するのは我々自身にとって酷である。次に頭に浮かぶ言葉が強制労働その他になってしまうのだが、これが望ましいとも思えないのだ。

参考文献
<ステーバス 阿南成一訳『法と道徳 死刑・自殺・産児制限等をめぐって』理想社 1968年>

冤罪や刑務官のことを考慮すれば私は完全に死刑廃止に賛成するので書かなかった。警察の発表がマスメディアを通じてしか流れないという、ほんの一側面を想起するだけでも寒気がする。冤罪の可能性が実際に高かろうが低かろうが、我々にはそれらの考慮の機会すら与えられておらぬ。
また、死刑制度の存置廃止を論ずる(つまり死刑制度の本質を考える)際に、自殺や死亡事故を大きく考慮の対象とするのは重大な誤りであると考えている。

| 雑記 | CM 0│ 2009. 06. 08(Mon) 19: 16 |

5月29日(金)

J-CASTニュース : 「殺人でもこんなに重くない」 識者も驚く福岡ひき逃げ高裁判決
量刑の基準を知らないし事実関係も分からないもんだから、これが妥当な判決なのかは判断しかねるが、「殺人でもこんなに重くない」ってどうゆうことなんだろうと思った。殺人罪に当らない原因において自由な行為であったり行為が故意未満の意思に基づいたものであったりすれば、どれほど大規模な被害を惹起しても一般的な(?)殺人における平均的な量刑よりも常に軽くあるべきだと考えてよいのでしょうか。
それともこの個別的事案における判決が一般的な殺人による量刑よりも重くなると判断できなかったからそう言ったのでしょうか。あるいは危険運転致死傷罪が適用された際の量刑は殺人の量刑を上回るべきではないと考えているのか。どんな風に運用されるかは判例の積み重ねで形成されるのでしょうか。例えば「この罪が適用された際の相場は2~3年」みたいな風潮が何年もかけて出来上がる、みたいな。

非常に頭の軽い文を書いています。ですが、司法関係者がおっしゃる「違和感」ですとか「厳しい」といった発言が、どういった理由に基づいて発せられているのかが気になるのです。それは当然「厳罰化の流れ」がある、「結論ありきの判決」だとおっしゃられればそうなのでしょうが、それでは意味がありません。問題提起にすらならないのです。彼らが驚き我々が当然だと言い、おそらく互いの理解も深めようとせず、結局は社会通念という名目の下に厳罰化へと向かうでしょう。
「識者も驚く」は「識者しか驚かない」と言い換え可能ではないでしょうか。「殺人でもこんなに重くない」とはいえ、殺人罪適用時の量刑を知る人間はどのくらいいるでしょうか。この罪は殺人罪よりも重くすべきでない根拠はなんなのでしょうか。いつ誰が示してくださったでしょうか。

裁判員制度最高ウハウハと申すつもりはありませんし、むしろこれは両者の溝を広げるように思っとりますが、両者の認識の乖離を示す制度としては目を見張るものがあります。一般の方々が裁判のプロセスに参画することは決定的に重要でないと考えています。特別な訓練を受けた人々の内部に一般人を無造作に放り込んでも、殆ど弊害しか生じないでしょう。
じゃあどうすればよいのかと言うと、どこでも言われるように外部からのプロセス可視化とアクセスの超容易さが大切だと思うわけですが、裁判所がオープンになったからと言って市民の意識が劇的に変わるなど有り得ません。
いっちばん大事なのは「何で刑法のこの罪の量刑は1年以下なの?」とかそういった超基本的な事項、だけど決定的に難しい事項に関するお話だと思うのです。例えが量刑の妥当性とはいえ、これは罪の個別的な事件への適用の話をするのでなくて法律の定め方の範疇の話を深めるっつうことです。我々が司法関係者と意識が乖離しまくっているのは、法律に対する根本的な解釈若しくは理解が完全に相違しているからだと思います。法(哲学)教育はガキの頃からされるべきです。法は最低限の道徳とみなされますから公教育にも馴染むでしょう。国語や道徳の授業のように訳分からん解釈を一方的に押し付けられることもあるだろうが、少なくともそれらより論理性を要求されるものでもあります。そもそも法を最低限の道徳の実現とみなす限り、市民が法文を知ることは言うまでもなく法の根拠を知ることが人間社会にとって強く要請されるところのものではないでしょうか。
その結果に刑法の各規定への疑義ないし禁固や懲役よりも労役義務や賠償義務の拡大と言ったより合理的な被害者救済を尊重する仕組が一般から提出されたり、民事になりますが日本国に大きく委ねられた司法の枠組を縮小し国家のみが権利を保護する役割を持ちうるという意識が緩和されるのを期待したりするんですが、んなうまく行くわけないですよね。しかし脱線しすぎ。とりあえず法律が法律家の独占するものである限りこの手の齟齬は永遠に解消されないと思います。

| 雑記 | CM 0│ 2009. 05. 30(Sat) 01: 40 |

5月25日(月)

今朝NHKのおはよう日本の特集で「〝辞書引き学習〟で国語力向上を」というのをやっておりましたけれども、これは素晴らしいなあと思いました。以前から耳にするものですから、その重要性や効果は至るところで述べられております。ですから、個人的に羨ましいなと思ったことを申し上げておきます。
それは自発的に芋蔓式に学ぶ姿勢です。インタビューに出ていた子は、新聞などを読んで分からない単語が出てきたら調べ、さらに調べた中に分からない言葉がでてきたら調べる、という癖がついていたのですね。学習を学習と意識せずに行う状態と言うのは、学習における理想的な状態だと思います。私には出来ません。単語においても読書においても参考文献に当るときにおいてもそうです。億劫で仕方がなく、結局やらない。意味が分からず分かろうともしないことが、どれだけ学ぶ範囲を制限することになるでしょうか。
上記の学びの姿勢が自然に身体に染み付いていることが、どれほどの財産であることかと感じます。

「なぜ国語を学ばなければならないのか」というフレーズを屡々耳にいたしますが、その一因は日常的な日本語と学習における国語とを、同一とみなすからだと考えます。鈴木孝夫氏の「ことばと文化」(1973/岩波新書)に「辞典は言葉の意味を説明」せず、定義を述べるに過ぎないとしておりまして、私はこれを是認します。日常的な国語には循環定義に陥る言葉が多分に含まれております。それは辞書によって「更にやさしい一語またはいくつかの言葉の単なる羅列で置き換えができないもの」のことで、例えば「石」や「痛い」「楽しい」と言った単語です。
石についてYahoo!辞書で調べると、「岩石の小片。岩よりも小さく、砂よりも大きなもの。」
岩について「石の大きなもの。岩石。いわお。」
砂について「石のごく細かいもの。すな。」
このようにトートロジーになってしまい、結局何も説明しません。こういった言葉の意味は、文化的な日常生活において経験的に付与されます。言葉の意味だけでなくその組み立て方も同様です。しかし、それは日常生活を送ることを可能にする程度のものに過ぎません。つまり、日常的な国語のみでは経験の世界、しかも自分の周囲の限られた経験の世界しか説明できないのです。
それらを論理や抽象の世界にまで押し広げ表現可能にする役目が、学習における国語が担うものの一つと私は考えます。教育現場において自らが国語を学ぶときは周囲も学ぶわけですから、結局日常に還元できることが多いので、「なぜ国語を学ぶ必要があるのか」という錯覚に陥るわけでもあります。ただ、そのことを意識すれば、国語の学習には価値があるということも分かるはずです。
などと訳の分からないことを書きましたが、最終的に言いたかったことは「国語力」って何やねんってことです。またマスコミが変な単語を作り出したのかなと思ったら、文科省が使い始めたんですね。○○力て。変な新書じゃないんですから。

| 雑記 | CM 0│ 2009. 05. 25(Mon) 22: 32 |

少子化っぽい話

痛いニュース(ノ∀`):「なぜ経済の豊かな日本で子どもが減るのか?」 少子高齢化世界ワースト1位の日本に海外から強い関心

私はこどもが減ったのはリスクの増大だと考えます。一つに教育の長期化です。
教育の長期化は、子どもが労働力として働き始める年齢の上昇と、それにかかる親の金銭的精神的負担と拘束時間の増加を意味します。
また、子どもにとってのお金の問題でもあります。教育に掛かる期間が長くなればその子が結婚するための経済的バックグラウンドの構築が遅くなります。大卒初任給を得るのは22歳以上からです。それから昇給を重ね経済的基盤を築くわけです。これが不況によって順調でなくなったり晩婚化に関わっていたりしていればうれしいです。
二つに月並みですが核家族化とコミュニティの衰退です。これにより子どもに掛かる負担は絶大に増えます。それは子育ての問題であり、他の生活全般に関わる問題でもあります。

などと言いましたが自分でもこりゃ全然ちげーよと思います。構造的な問題と社会的な問題と個人的な問題が含まれる、てゆーか全部が問題な問題だと思います。だから少子化へのアプローチは延々と拡大し収拾がつかなくなるとも考えています。私は少子化を問題としないのであれなんですけれども。

話はずれますが、私が問題とするのは、生まれてきた子どもたち(及びその育ての親)に対して可能な最高のバックアップが出来る世の中をどうやってつくるんかという話です。それは制度に丸投げのものでなしに、社会的な力―それでもそれは強制や内心の侵害によらない個人の自発的な意思に基づくものであるわけですが―にも大きな役割を認めるものです。もちろんこの二つに限ったことでは有りませんし、他のいかなるアプローチも考えられるわけですが。
んでその結果少子化になろうがどうなろうが知ったことではありません。

またも妄想を垂れ流したわけですが、肝心なのは子どもの数が増えた減ったという話ではないことが言いたいだけでした。すいません。だって経済情勢や産業構造を少子化の一因に求めたりしたってあまり意味がない気がするんですもの。
まあ私が申し上げることは、段階を無視して一足飛びに理想だけを語る不毛以外の何ものでもないわけですけれど。

| 雑記 | CM 0│ 2009. 05. 11(Mon) 22: 15 |

花粉症

先日yahoo!でじゃばらが花粉症にいいよという記事がありましたが、じゃばらという果実はそう簡単に手に入る果物ではござーません、おそらく。そんなわけでソースにありました和歌山県工業技術センターのHPを拝見させていただきました。
そちらのpdfに柑橘類の脱顆粒抑制作用に関する報告があり果実について比較がなされておりましたが、ド文系の私には読み方が分かりませんでした(こんな言い方では逆に文系の方に失礼)。そんなこんなでじゃばらもゆずも似たような試験結果に見えてしまったので、これはもうゆずでいいかと思った次第で御座います。
でもゆずって何に使うんでしょうー?ってな感じなのでどうしましょ。結局ゆずっぽいお菓子を買うのに終始しそうでいけませんね。

花粉症、食べて乗り切れ 魚、ヨーグルト…体質を改善(産経新聞)-Yahoo!ニュース
てことで一体何をどれだけ食べればよいのでしょうか。レンコン、たまねぎ、にら云々仰ってますが野菜なら何でもいいのでは…とか思えてきます。


あと和歌山の方で平成17年の記事にありました「生ハムは腐らない」というタイトルがステキだなあと思いました。

| 雑記 | CM 0│ 2009. 03. 17(Tue) 22: 25 |

| main |

Profile

Author:1741
絵の練習メイン。多分。
コメント・拍手等いただけると跳んで喜びます。リンクフリー。
twitter
pixiv

Link

  • murmur
  • Legatus
  • カラーレスソウル
  • 星番地
  • 管理画面
  • Archives

    2017年06月 (1)
    2017年04月 (1)
    2017年02月 (1)
    2017年01月 (1)
    2016年11月 (2)
    2016年10月 (8)
    2016年09月 (6)
    2016年08月 (2)
    2016年07月 (4)
    2016年03月 (2)
    2016年01月 (3)
    2015年12月 (2)
    2015年10月 (4)
    2015年09月 (1)
    2015年02月 (1)
    2015年01月 (2)
    2014年12月 (3)
    2014年11月 (2)
    2014年10月 (1)
    2014年07月 (1)
    2014年06月 (1)
    2014年05月 (1)
    2014年04月 (6)
    2014年03月 (1)
    2014年02月 (3)
    2014年01月 (1)
    2013年12月 (1)
    2013年09月 (1)
    2013年08月 (1)
    2013年07月 (5)
    2013年06月 (4)
    2013年03月 (1)
    2013年02月 (1)
    2013年01月 (1)
    2012年12月 (2)
    2012年11月 (2)
    2012年10月 (6)
    2012年09月 (5)
    2012年08月 (1)
    2012年07月 (5)
    2012年06月 (4)
    2012年05月 (7)
    2012年04月 (9)
    2012年03月 (7)
    2012年02月 (4)
    2012年01月 (8)
    2011年12月 (11)
    2011年11月 (5)
    2011年10月 (2)
    2011年07月 (3)
    2011年06月 (5)
    2011年05月 (16)
    2011年04月 (18)
    2011年03月 (2)
    2011年02月 (5)
    2011年01月 (12)
    2010年12月 (21)
    2010年11月 (9)
    2010年10月 (9)
    2010年09月 (8)
    2010年08月 (19)
    2010年07月 (6)
    2010年06月 (10)
    2010年05月 (3)
    2010年04月 (3)
    2010年03月 (4)
    2010年02月 (9)
    2010年01月 (7)
    2009年12月 (9)
    2009年11月 (26)
    2009年10月 (25)
    2009年09月 (1)
    2009年08月 (3)
    2009年07月 (6)
    2009年06月 (9)
    2009年05月 (11)
    2009年04月 (15)
    2009年03月 (8)
    2009年02月 (1)
    2009年01月 (2)
    2008年12月 (4)
    2008年11月 (11)
    2008年10月 (9)
    2008年09月 (5)
    2008年08月 (7)
    2008年07月 (4)
    2008年06月 (3)
    2008年05月 (6)
    2008年04月 (10)
    2008年03月 (11)
    2008年02月 (7)
    2008年01月 (11)
    2007年12月 (5)
    2007年10月 (3)
    2007年09月 (10)
    2007年08月 (4)
    2007年07月 (5)
    2007年06月 (4)
    2007年05月 (1)
    2007年04月 (5)
    2007年03月 (4)
    2007年02月 (1)