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6月6日(土)

基本的に音楽とか全く聞かない人間だったのですが、素敵な曲に出会ったので最近は聞いています(なんじゃそりゃ)。Queenのとある曲の題名が分からなくてyoutubeで探してたのだけれど、そのときにBohemian Rhapsodyを聴いて、あー世の中にはこんなスゴイ歌があるんだーと思っていま彼らの曲ばかり聴いています。
なんか気付いたらCD5枚あるのだけれども、錯覚かな。
びっくりしたのがパソコンにGreatest Hits Ⅱが既に取り込まれていたことです。なんでやと思って試しに部屋の本棚ひっくり返してたらCDが出てきた。そんなわけで2年くらい前に近くの本屋の店仕舞の時にこれを買ったのを思い出したのですけれども、何でこれ買ったのやら。しかも聴いてないて。

あといま無性にゲームがやりたい。某掲示板でサガフロンティアのスレ見てたらもうヤバイ。手が震える。親指が勝手に動く。これが禁断症状というヤツかっ!
PS2を封印してから結構経つと思うのですが、よくぞここまで耐えたといったところです。自画自賛です。結局完全に仕舞ってあっていつでも売れる状態なので出していないんですが。出すのメンドクサイしまた片付けんのもメンドクサイし(自分の性格上再びしまうのを試みることが目に見えて想定される)。あーゲームやりたい。PSP欲しいな~。
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| 未分類 | CM 0│ 2009. 06. 06(Sat) 22: 43 |

6月8日(月)

死刑存置とは「間違って殺しても仕方ない」ということ - good2nd
こちらのはてなのブコメで
・冤罪と死刑とを同一の次元で語るなとか
・条件付の死刑だけを是認するからそれは問題じゃないとか
・取り返しのつかないのはどんな刑罰でも同じとか
・冤罪を発生させない努力をしていれば許容されるとか
書かれてるけど、

これは言いかえれば「国民感情論からいって納得がいくためには、冤罪の可能性が極めて低いと思われるであれば、間違って殺してもかまわない」ということであるはずです。

殺されてしまったら、こうして声を震わせて怒りを語ることができないじゃないですか。捜査が不当だったと糾弾することができないじゃないですか。無罪が認められたと墓参りすることができないじゃないですか。

というようにブログで書かれていることに対して、こういったコメントが反論として成り立っていないように思えるのですが。
それとも既に「間違って殺しても仕方ない」のを承認した上で書いているのでしょうか。本題はタイトルのたった一行だと思うのですけれども、どうなのかな。
私はこの考えに基づいていえば死刑には反対です。

死刑について-後日書いたもの(かなりいいかげんです)

| 未分類 | CM 0│ 2009. 06. 08(Mon) 02: 47 |

死刑について

いつも通り俺様理論が展開されますので読む価値はありません。

殺人による死刑に値する犯罪が行われたことを想定する。

◇社会契約と手段としての死刑
社会契約は契約当事者の保存を目的とする。目的のための手段として、他人の犠牲において自らの生命の保存をしようとするかわりに、必要な場合には自らの生命の犠牲により他人の生命を保存しなければならない。各人の合意によって設立された国家の統治者が「お前が死んだほうが国家のためだ」と言ったとき、彼は死ななければならない(ほんまか?)。
・合意は、自分が殺されないために、自分が殺したときには死刑になることを承認するというものである。
・「社会的権利を侵害する悪人は、すべて、その犯罪のゆえに、祖国への反逆者、裏切り者となるのだ。彼は、法を犯すことによって、祖国の一員であることをやめ、さらに祖国にたいして戦争をすることにさえなる。だから、国家の保存と彼の保存とは、両立し得ないものとなる。」
「そして、罪人を殺すのは、市民としてよりも、むしろ敵としてだ。彼を裁判すること、および判決をくだすことは、彼が社会契約を破ったということ、従って、彼がもはや国家の一員ではないことの証明および宣告なのだ」
結果殺されるか、追放されることになる。
・処刑は主権者に属するのではなく、授けることはできるが彼自ら行使できる権利ではないとされる(←よくわからん)。
<参考・引用:ルソー著、桑原武夫・前川貞次郎訳『社会契約論』岩波文庫、1954年 pp.54-55>

・自己の生命の保存のために死刑は正当化できるか(≒特別予防)
凶悪犯罪者が一般市民と完全に隔離することができるならば(一般社会で再び犯罪を犯す可能性がないのならば)、正当化できない可能性がある。
・被害者の救済の仕方は不明

(※こっからもっとトンデモになります。戻るボタンでお戻りください)

◇現代的な手段としての死刑とその目的
上述と同じことを意味しているように思われるが、ここでは現代的・現実的な意味で用いる。また、更正や再教育、謝罪や反省の念の自覚といった刑罰の一般的な役割には触れない。
ⅰ仇討ち防止
ⅱ一般予防
ⅲ特別予防
ⅳ犯罪と刑罰の均衡

ⅴ被害者の感情の顧慮
ⅵ被害者遺族の感情の顧慮
ⅶ社会通念上の要請の達成

ⅰ 国家権力の刑罰権独占
国家の要請。市民から刑罰権を取り上げ、国家のみが刑事裁判を行い刑の執行者となる。立憲民主主義国家の前提とされ、市民個人の報復権や処罰権の行使は認めず、それらを防ぐ。そもそも本当にそれでいいのかというのは置いておく。
ⅱ 刑罰の威嚇効果
刑罰には、見せしめによって一般市民による類似犯罪を未然に防止できる効力があるという考え方である。
加害者が犯行するにあたって、「この行為に及んだら、死刑になる」というように考えるのは稀だろう。たとえそれがそのとき、避けることができる行為であったとしても、あるいは自分でもその行為の理由がよく分からなかったとしても、自らの行為の自由なひとつの選択に過ぎなかったことにかわりはない。
悪質な犯罪者が、その瞬間に刑罰の軽重を考慮し、そのことによって彼の行為を加減したりするだろうか。私は彼らが押並べて精神に支障を来たしているという偏見を抱いているので(※一般的な(?)殺人は想定しない)、それらが彼らの行為の際になされる余地はないと考えている。そして、一般市民(ここでは日本国民を想定)については死刑の威嚇効果なぞなくともそのような凶悪な罪を犯さないとも考える。
ⅲ 再犯の防止
上述
ⅳ 応報理論
どう足掻いても均衡しない。加害者に対して如何なる残酷な刑を科そうが彼の犯した罪に及ばない。それは、人を殺すこと―人が人に犯しうる最大の権利侵害―がいかに特殊であるかを示す。加害者に被害者の人生をそのまま償わせることはできず、被害者の死ぬほどの苦痛と恐怖とは加害者への再現可能のものではない。社会に対する影響をも加味すれば、3重の罪を背負うと仮定される。
ただし、対等な命としての償いは想定できる。つまり、加害者の命を1、被害者の命を-1(-α)と極端に抽象化して仮定すれば、それらを相殺できるというものである。加害者も結局死ぬわけだから-1+(-1)と考えて-2になるともいえなくともない(大抵いわない)。この数字化の想定は直観に反する場合が多かろう。また、複数殺人の場合では相殺が成り立たなくなる。
もっとも、応報の考え方そのものは、我々の正義に対する直観にある程度合致することは言うまでもない。さもなければこれほど影響力がある理由を説明できないだろう。

ⅴ 被害者について
我々が最も尊重しなければならないものは被害者の名誉である。現行の死刑制度がそれに適っているといえるかは不明である。
(名誉 ③道徳的尊厳、すなわち人格の高さに対する自覚。また、道徳的尊厳が、他人に承認・尊敬・賞賛せられること。 広辞苑より引用)
ⅵ 遺族について
被害者遺族の感情は、被害者の次に考慮されるものだと思う。ただし、その間には天と地ほどの差がある。
死刑が被害者遺族の感情を和らげることはあるが、それが第一義的なものになってはならないと考える。
ⅶ 社会通念
一般的に遺族のそれと同程度。これは優先順位ではなくどちらがより認識されやすいかの問題に過ぎない。「社会通念に照らして…」というような判決文にみられる文言の意味内容は無視する。
イギリスの王立死刑問題委員会で、デニング卿が
「重罪に対する刑罰は、それに対して市民の大多数が感じる激しい反応を適切に反映すべきである。刑罰の目的は、抑止的あるいは改善的あるいは予防的なもの以外にないと考えるのは誤りである。いかなる刑罰であれ、それを正当化する究極の根拠は、刑罰が犯罪を抑止することにあるのではなく、刑罰が犯罪に対する社会の強い非難であることにある。」
と述べた。半分は賛成で、半分は反対する。市民の感情は移ろい易く扇動され易い。死刑の正当化を社会通念に多く求めるのは適切ではない。
法律は良心を体系化し、その範囲においては道徳的権威を有するが、良心は誤りうるものであるし、法律も正しさを保証できるとは限らない。法律の中に或る道徳的判断が保持されていても、それは今なお社会で一般的に支持されていることにはならない。時代の道徳観に合致しない法律は、しばしば廃止によってではなく、無実効性のゆえにその効力を失った。したがって、一般の意見の一致するところのみが国家公共の道徳秩序にゆだねられざるを得ない。
ここでいう一般の意見は一般意思に近く解釈される。世論が法律を形成するという見解もあるが、現在においてこれがあてはまるわけではなく、また世論が道徳的観念・良心の構成や発現であるとは必ずしもいえないのは多分に認められるところであるからだ。世論(多数者)の意見が誤謬に満ちている可能性があることを我々は知っている。
従って国民感情が道徳の正しさの証明乃至表明でない限りそれを優先するいわれはない。それを判定するには、普遍性や変更不可能性を考慮せねばならず、本当にそれが存在すると考えるのはあまりに理想主義に傾く。

◇私見
応報理論は適切ではない。殺人の多くは死をもってしても償いきれない行為であると考えるためである。
被害者の顧慮が最優先になされねばならない。死刑が各人の合意に基づいた、また彼らの処罰権を国家に授けた状態であるとはいえ、肝心の処罰権が発動されるのは個人の権利が侵害されたときである。従って被害者の名誉の回復が第一義的に顧慮されるべきである。
・名誉の回復のために
名誉の回復は加害者が死ぬことではまず足りない。ただしこれは死刑を廃止する意図を有するものではない。死刑が彼の個人的責任によって惹起されるのならば、その責任には被害者の人生の回復義務をも含まれると考える。それには彼の生前の稼得能力に限らず、為し得たであろうすべての社会的利益の実現を含む(拡大解釈すれば地雷除去さえ含まれることになる)。
現実的に社会でそれらを行わせるのは多くの場合不可能なため、その評価は一定の行為の要求と金銭的価値に換算するのが仕方なくも妥当と考えられ、それらは彼自身の行為によってすべて創出されなければならない。加害者の行為によって断念せられた被害者のすべての行為を加害者の一身に基づき負担させることを想定するからである。その際に彼の身体的権利が一定程度制限されること(強制労働・臓器売買など)は当然に許容される。彼がそれらを果たすまでに死んでもよいかは不明。
月並みな言葉だが死刑は被害者に対する償いにはならない。命と命とでは対等であるが、被害者の人生を絶つことと加害者の人生を絶つこととの間には大きな隔たりがあることに、ほぼ全ての人間が同意するだろう。死刑は遺族や社会に対して憤怒を鎮静化させ平穏をもたらす効果はあるが、それは中心的なものではなく、また、被害者の名誉の回復が死刑で達成される、乃至その手段として死刑は最も合理的だと短絡的に考えられてはならない。
大衆が死刑を望むのを三段論法では、
1 Aは凶悪な殺人を犯した
2 凶悪な殺人を犯した者は死刑に処される
3 Aは死刑に処される
と表現できる(あってんのかこれ)。この際に欠如するのは被害者の顧慮である。大衆がそれを無視する―つまり彼らが彼ら自身の感情のみに基づいて死刑を主張する―のと同時に死刑もまたそれを無視している。加害者が殺されるのは事件に「終止符」が打たれたことを意味することもある。
再びいうが、加害者への憎悪や社会不安といった国民感情が死刑を根本から正当化するものではない。更に言えば、死刑による遺族の感情の慰撫ですら二義的なものに過ぎない。それらが死刑を正当化するのは不可能だと言っているわけではない。我々が絶大な怒りと憎しみを抱え表明し死刑を実現させたところで、被害者の名誉は決して回復するわけではなく、それどころか事件とその内容とを風化させる危険性さえ孕んでいる。
だからといって、私の頭に画期的な措置が思い浮かぶわけではない。現状に必要なのは、加害者が罪の償いをする際に、最も合理的で我々の直観に合致する処置は何であるかを再考することだ。
また、国家権力に掌握されている刑罰権の実現が、極めて秘密裏に行使されほとんどその実態を知られていないのは異常な事態である。死刑が如何なるものかをまず知る必要があるし、そうしないと正しい判断を下す経緯を確保することも難しい。
私の理想を言えば加害者が真に反省し謝罪しその罪を自ら償うようになるというものだが、これらを実現するのは我々自身にとって酷である。次に頭に浮かぶ言葉が強制労働その他になってしまうのだが、これが望ましいとも思えないのだ。

参考文献
<ステーバス 阿南成一訳『法と道徳 死刑・自殺・産児制限等をめぐって』理想社 1968年>

冤罪や刑務官のことを考慮すれば私は完全に死刑廃止に賛成するので書かなかった。警察の発表がマスメディアを通じてしか流れないという、ほんの一側面を想起するだけでも寒気がする。冤罪の可能性が実際に高かろうが低かろうが、我々にはそれらの考慮の機会すら与えられておらぬ。
また、死刑制度の存置廃止を論ずる(つまり死刑制度の本質を考える)際に、自殺や死亡事故を大きく考慮の対象とするのは重大な誤りであると考えている。

| 雑記 | CM 0│ 2009. 06. 08(Mon) 19: 16 |

戦争を想像することについて

戦争をリアルに想像できない人 - gonzales66の日記
戦争をリアルに想像できない人のつづき - gonzales66の日記
の二つのエントリを読んで思ったこと。

想像力を、誰かさんの立場を自分の身に引き付けて考える力ということにします。
前半部分は断りがない限り前線に従軍するような兵隊さんを適当に想定しています。


想像力の大きさ(射程距離)に関しては、個人間や世代間に明確な差が有るとは思いません。
どちらかといえば、上の世代(ここでは戦争を体験していない世代から)が、その想像力を働かせるつもりがなく、その機会を得ようとしないため、そのような傾向が下の世代にも影響しているに過ぎないのかなあなんて思います。

kanonの話で思うのだけれど、それはゲームを通すことが想像する契機になってるのかなと思うのです。
ここでゲームを通すという意味は、小説でも映画でも何でもよかったりするんですが、大事なことはその内容が我々の日常の行動や思考に「身近」であることだと思うのです。登場人物が我々の思考と似通っていたりそういった行為をしたり、また我々が望ましいと思うようなことを行ったりすることで彼らに共感するのです。他にもあるはずなんですが言葉にならなかったり。そしてそういう契機があるから想像力を働かせ、相手の立場を考えることができるんじゃないかと思います。

前提として、「身近」って意味を構成するものは、私たちが生まれてこのかた触れてきた世界―国家間の状況から、いままで会った人々の思考や行動、判断、立ち振る舞い、話し方、トーン、顔の筋肉や目の動き、仕草などのミクロな話も含む―にどれだけ近似かということを指します。ここでいう世界というのは各個人にとって当然に違うものなんですが、そういった前提を無視して「彼には想像力がない」と言い切るのはいかがなものかと思うのです。

「想像せよ」と言って提示された内容が、受け手(によって経験されてきた世界)と近しければ近しいほど、大きな共感や感情移入、そして想像といった、現実にはその場に提供されていないものを彼は生みだすことができるのじゃないかなと思うのです。
結局、想像力は各人によって各々別の限界があるということになりそうなんですが、そういうことです。けれども、各人の体験などは流動的なものであって、その世界はいくらでも変動しえます。彼の中で経験されてきた世界が変動すれば、想像できる範疇もむろん変動しうるということです。
というわけで今回もまたなんの根拠もない記事を書いておるわけでございます。

そして、これを戦争の話に引き付けて考えると、全然想像力が働かないことになります。だって、私のような比較的若い世代にとって、戦争が完全に非日常で、それに共通するようなものに触れた記憶というのは、私個人としては中学生のときに老人福祉施設で戦争の話を聞かせてもらったり、高校生のときに広島の平和記念資料館を訪れたりしたくらいです。
「~したくらいです」ってあれ見てその程度の感情しかもたなかったのか消えろやウンコ野郎とか言われそうですが反論できませんほんとすんません。

んで私個人の感想としては、それらは生々しく悲惨な事実であるのですが、リアリティがない。リアリティというのは禁句かもしれませんが、現実に引き付けて、自分の身になって思考することができないというようなことです。
ちなみに戦争映画とかで血が吹き出したりカメラワークが妙にぐらついたり画面に土がついたりして臨場感があったり、銃弾とかがチュンチュン飛んでくるシーンなんかは漠然とリアルだなーとか思うときはありますが、このリアルはどうでもいいリアルのほうです(なんじゃそりゃ)。いや実際の現場の想定の手助けにはなるかもしれないけれど、想像力の話とは違うかなと。


もう一つ、人間は、限界状況よりも、理想状況のほうがずっと想像しやすく、またそうする傾向のある生き物だということです。これは人間の本性的な部分です。絶えず「戦争」や「死ぬこと」について考えるよりも、ずっと自分の好きなことを考えるほうが自然であり、なおかつ人は「死」などの限界状況について考えるのを回避したり頭の隅に追いやったり誤魔化そうとします。哲学者をのぞけば多くの人々がそうだと思います。kanonへの共感は理想状況でもすこし説明がつくかと思います。
既述に関連した話として、我々は戦争に近似の体験をしていません。誰かに命を狙われたり、緊急避難や正当防衛が成立するような状況にたった人は別として、そういった経験を日常どころか一度も経験したことがない人が大部分ではないでしょうか。
背嚢を背負ったりヘルメットを被ったりなんかは、小学校のときにランドセルを背負って1時間通って学校に行ったり、中学校の通学でヘルメ被ったりなんかするわけで、外形的には本当になんとなくですが似ています。でも決定的に違うのは、その状況です。通学は戦争ではありません。確かに事故死する可能性や事件に巻き込まれる可能性が0とはいいませんが、戦争の、乃至それと近似の状況とは全く違います。

銃を突きつけられたり、銃を突きつけたりする現場は、客観的には想定することができるでしょう。ですが、そんなことはあまり問題ではなく、そのような限界状況に当事者として立たされたとき、我々がどう思考し、どんな判断を下し、いかなる行動をするのかが、全く想像できないのが問題なのです(私だけかもしれませんけれど)。

私が敵に対して引き金を引くのを想定したとき、私は何を思って引くのでしょうか。とまどいながらでしょうか。懺悔しながらでしょうか。それとも何も考えまいと努めているでしょうか。或いは、殺すことが快楽になるよう暗示を受けているのか、もしくはそう自分に言い聞かせながらでしょうか。
もしかしたら、隙を見て逃げようとしたり、自棄になって取り返しのつかないことをしたりするかもしれません。そうした状況に置かれた時、自分がはどんな思考をするのか見当もつかないのです。


話がずれます。
結局私もこうの史代さんを引き合いに出すわけですが、『この世界の片隅に』を読んで、私の心は揺さぶられました。彼女の漫画に登場する人々は、あまりにも生き生きとしていました。その漫画の世界には、私なりのリアリティが存在していました。つまり、共感や感情移入ができる、私にとって想像可能な世界が広がっていたのです。広げてくれていた、といったほうが適切かもしれませんが。
そして、その世界の中には、原子爆弾が描写されていました。

だから、私にとって衝撃だったのです。

あの原子爆弾の描写が、私にとって想像可能な世界を生み出すものの内に含まれていたということが、それが、どんなに大切なことでしょうか。

先ほど「生々しく悲惨」ではあるがリアリティがないといったのは、自分でもよく分かりませんが、そういうことなんだと解釈しています。人間が「そこ」に映っているのにリアリティがないとは何事だと、自分でもそう思います。でもあのときは、悲惨な過去の事実、けれど、私の世界とは疎遠でつかみどころのない事実だと捉えられました。
ところが、あの漫画の中で原子爆弾が描写され、戦争に対する心情が吐露されたとき、私は間違いなく共感していたのです。

若い世代では日中戦争も三国志と同じ感覚なのだろうか?


という言葉がありましたが、私にとっては同じだったかもしれません。

私はこれまで、戦争による死や貧しさが、そのままそこに暮らす人々の人生の不幸せを決定すると頭ごなしに決めつけていた節があります。ですが、あの漫画を読んで、そういった感覚はずれているかなと思いました。
その感覚は幾らもあって、歴史で中世の農民たちが役人に虐げられていたなどと聞けば、それだけで彼らの人生はみんな暗く辛いものだと、不幸せなものだったと想定していました。
ですが、そうではないのかもしれないのです。
それは原子爆弾の投下による被害に遭った方々にも当てはまるのではないかと感じます。
原子爆弾が炸裂した瞬間、彼らの人生が全て不幸せだったことになるのでしょうか。
私は、そんなことを疑問にさえしませんでした。彼らは、悲しまれる存在であり、不幸な人々であったと、ただ、本当に単純にそう思っていました。
当時の人々の日常には戦争が影を落としていました。それは間違いではないと思います。ですが、だから彼らの日常は闇に包まれており不幸であったかと、彼らは未来永劫ただ悲しまれ続けるだけの存在かと言われれば、違う、と今の私は答えるでしょう。

三国時代には、農民の多くが流民化し、各国において戸籍の数の減少がひどい時代でした。それは飢饉や絶えない戦争が原因で発生したのだろうと思います。
だからといって、あの時代を必死に生きようとする彼らを、全て不幸な存在だったと個人的に決めつけるわけにもいかなくなったということでもあります。その点でいえば、私にとって日中戦争も三国時代も同じになってしまうといえるのかもしれないのです。

結局、自分が何を言いたいのかがまとまりません。
今一度資料館に行ってみて、そこに映っている彼らを、生々しくも生き生きとした姿として私が捉えられるかといえば際どいところでしょう。
ですが、これまで戦争で死んでいった数多の人々が、無数の人生を実際に歩んでいたことを、それこそ私の日常のように便所にたったり居間でくつろいだり、早起きして朝日を浴びたり、家族との団欒を過ごしたり、布団にくるまって寝息をたてたりしていたことを、そのような日常を通して彼らがどんな想いを抱きながら日々過ごしていたのかを、どのような時代であれ想像せずにはいられないのです。

| 雑記 | CM 0│ 2009. 06. 10(Wed) 02: 10 |

高くない時計の修理

3日くらい前に時計屋さんで時計を修理してもらった。ピンの部分が破損してベルトが千切れちゃったからなんですが、修理の代金におどろいたという話。2000円くらいかなーと思ってたけど、税込525円だったという。てゆーか、これくらいが相場つーことですよね?
普段しないような出費だったので、なんか値段にびっくりしたわけです。ただの非常識ならこっぱずかしい。常識的に考えればそのくらいが妥当だろ…みたいな。なんかそんな気がしてきた。
んでそのあと近くの靴屋で2000円のセール品買って帰った。

| 未分類 | CM 0│ 2009. 06. 11(Thu) 19: 50 |

風に舞いあがるなんとやら

まともにみてないけど。
てか、クリス・ペプラー演じるエドが亡くなったあと、なぜか職員たちがすぐにパーティをし始めるというもはや狂気としか思えない展開に度肝を抜かされました。音楽を聴いていたので台詞は一切聞きとっていないからそうなる。

てかなんで見てるのかというと吹石一恵さんがかわいくてしかたがないからです。初見は『ロッカーのハナコさん』でしたが、もうぞっこんでした。あれは一回も見逃さなかったと思うけど、今回はドラマの内容が内容なんで…。役者さんは悪くないと思うんですが。
いやーしかしかわいいなー前よりもさらに美しさに磨きがかかったよなー。ドラマ自体はわけわからんけど、吹石一恵さんが見られるだけで満足です。


6月13日 アンデス 天空の鏡 - 見どころ|NHK ワンダー×ワンダー 総合テレビ 毎週土曜日 午後10時〜10時49分
これはマジでヤバカッタ。テレビの前で一人で「マジで、マジでか」って10回くらい言った。息を呑む光景というか、呼吸を忘れるほどの美しさってのは、こういうのを言うんだろうな。
14インチのブラウン管を通して見るだけでもこれほど衝撃的なのに、65インチプラズマテレビで見てたら死んでたかもしれん。それくらいヤバかった。
すげーなー。現代人の幾らも宇宙を体験しないのに、ウユニ塩原の近くに住む人々たちは何千年も前から最も空に近い場所を歩いて、宇宙の真っ只中に立つことができたんだなーっと思うと、羨ましいどころか、妬ましい気持ちにすらなります。

| 未分類 | CM 0│ 2009. 06. 13(Sat) 22: 37 |

6月14日(日)

NHKスペシャル マネー資本主義 第3回 年金マネーの“熱狂”はなぜ起きたのかをみる。やはり内容は分からないが、あいかわらずオープニング神。おそらくオープニング時は視聴者総立ちで拍手を送っていたことだろう。
それにしてもあの年金運用の担当者はどういうつもりだったんだ。つうか、なんでまだあの人がそのポストにいるの?金融危機以前にサッパリわけのわからない事態なんですが。


あいぽっどなの~
iPod買っちゃった。どんだけしょっぺえもんかと思ってたら凄すぎて笑った。こんな高機能なら奮発してタッチパネルのでっかい容量のヤツ買えばよかったなあと思う。
とりあえず私はQueenライフが充実すればあとは構わないのでそこまで出費する必要はないのだけれど、やっぱ欲がでてくるよなー。なんでこんな小型で薄っぺらいのにいろんなことできるんだろ。どこに何をどうやって搭載してんだ(説明されても理解できんけど)。予想のはるか上をゆくぺらっぺらさだもんなあ。すげーなあ。

| 未分類 | CM 2│ 2009. 06. 14(Sun) 21: 39 |

6月29日(火)

ヘッドホンを新しく買ったんだけど、耳がすごいむれる。恐るべし密閉型。

Victor オーディオ用(インドア)ヘッドホン[HP-RX700]Victor オーディオ用(インドア)ヘッドホン[HP-RX700]
(2008/02/05)
不明

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| 未分類 | CM 0│ 2009. 06. 30(Tue) 01: 25 |

6月30日(火)




Queenすばらしー。フレディかっこよすぎるです。

まさかニコニコ動画の動画を貼ることになろうとは。

| 未分類 | CM 0│ 2009. 06. 30(Tue) 21: 55 |

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