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今朝NHKのおはよう日本の特集で「〝辞書引き学習〟で国語力向上を」というのをやっておりましたけれども、これは素晴らしいなあと思いました。以前から耳にするものですから、その重要性や効果は至るところで述べられております。ですから、個人的に羨ましいなと思ったことを申し上げておきます。
それは自発的に芋蔓式に学ぶ姿勢です。インタビューに出ていた子は、新聞などを読んで分からない単語が出てきたら調べ、さらに調べた中に分からない言葉がでてきたら調べる、という癖がついていたのですね。学習を学習と意識せずに行う状態と言うのは、学習における理想的な状態だと思います。私には出来ません。単語においても読書においても参考文献に当るときにおいてもそうです。億劫で仕方がなく、結局やらない。意味が分からず分かろうともしないことが、どれだけ学ぶ範囲を制限することになるでしょうか。
上記の学びの姿勢が自然に身体に染み付いていることが、どれほどの財産であることかと感じます。
「なぜ国語を学ばなければならないのか」というフレーズを屡々耳にいたしますが、その一因は日常的な日本語と学習における国語とを、同一とみなすからだと考えます。鈴木孝夫氏の「ことばと文化」(1973/岩波新書)に「辞典は言葉の意味を説明」せず、定義を述べるに過ぎないとしておりまして、私はこれを是認します。日常的な国語には循環定義に陥る言葉が多分に含まれております。それは辞書によって「更にやさしい一語またはいくつかの言葉の単なる羅列で置き換えができないもの」のことで、例えば「石」や「痛い」「楽しい」と言った単語です。
石についてYahoo!辞書で調べると、「岩石の小片。岩よりも小さく、砂よりも大きなもの。」
岩について「石の大きなもの。岩石。いわお。」
砂について「石のごく細かいもの。すな。」
このようにトートロジーになってしまい、結局何も説明しません。こういった言葉の意味は、文化的な日常生活において経験的に付与されます。言葉の意味だけでなくその組み立て方も同様です。しかし、それは日常生活を送ることを可能にする程度のものに過ぎません。つまり、日常的な国語のみでは経験の世界、しかも自分の周囲の限られた経験の世界しか説明できないのです。
それらを論理や抽象の世界にまで押し広げ表現可能にする役目が、学習における国語が担うものの一つと私は考えます。教育現場において自らが国語を学ぶときは周囲も学ぶわけですから、結局日常に還元できることが多いので、「なぜ国語を学ぶ必要があるのか」という錯覚に陥るわけでもあります。ただ、そのことを意識すれば、国語の学習には価値があるということも分かるはずです。
などと訳の分からないことを書きましたが、最終的に言いたかったことは「国語力」って何やねんってことです。またマスコミが変な単語を作り出したのかなと思ったら、文科省が使い始めたんですね。○○力て。変な新書じゃないんですから。
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雑記 | CM 0│
2009.
05.
25(Mon)
22:
32
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