戦争を想像することについて

戦争をリアルに想像できない人 - gonzales66の日記
戦争をリアルに想像できない人のつづき - gonzales66の日記
の二つのエントリを読んで思ったこと。

想像力を、誰かさんの立場を自分の身に引き付けて考える力ということにします。
前半部分は断りがない限り前線に従軍するような兵隊さんを適当に想定しています。


想像力の大きさ(射程距離)に関しては、個人間や世代間に明確な差が有るとは思いません。
どちらかといえば、上の世代(ここでは戦争を体験していない世代から)が、その想像力を働かせるつもりがなく、その機会を得ようとしないため、そのような傾向が下の世代にも影響しているに過ぎないのかなあなんて思います。

kanonの話で思うのだけれど、それはゲームを通すことが想像する契機になってるのかなと思うのです。
ここでゲームを通すという意味は、小説でも映画でも何でもよかったりするんですが、大事なことはその内容が我々の日常の行動や思考に「身近」であることだと思うのです。登場人物が我々の思考と似通っていたりそういった行為をしたり、また我々が望ましいと思うようなことを行ったりすることで彼らに共感するのです。他にもあるはずなんですが言葉にならなかったり。そしてそういう契機があるから想像力を働かせ、相手の立場を考えることができるんじゃないかと思います。

前提として、「身近」って意味を構成するものは、私たちが生まれてこのかた触れてきた世界―国家間の状況から、いままで会った人々の思考や行動、判断、立ち振る舞い、話し方、トーン、顔の筋肉や目の動き、仕草などのミクロな話も含む―にどれだけ近似かということを指します。ここでいう世界というのは各個人にとって当然に違うものなんですが、そういった前提を無視して「彼には想像力がない」と言い切るのはいかがなものかと思うのです。

「想像せよ」と言って提示された内容が、受け手(によって経験されてきた世界)と近しければ近しいほど、大きな共感や感情移入、そして想像といった、現実にはその場に提供されていないものを彼は生みだすことができるのじゃないかなと思うのです。
結局、想像力は各人によって各々別の限界があるということになりそうなんですが、そういうことです。けれども、各人の体験などは流動的なものであって、その世界はいくらでも変動しえます。彼の中で経験されてきた世界が変動すれば、想像できる範疇もむろん変動しうるということです。
というわけで今回もまたなんの根拠もない記事を書いておるわけでございます。

そして、これを戦争の話に引き付けて考えると、全然想像力が働かないことになります。だって、私のような比較的若い世代にとって、戦争が完全に非日常で、それに共通するようなものに触れた記憶というのは、私個人としては中学生のときに老人福祉施設で戦争の話を聞かせてもらったり、高校生のときに広島の平和記念資料館を訪れたりしたくらいです。
「~したくらいです」ってあれ見てその程度の感情しかもたなかったのか消えろやウンコ野郎とか言われそうですが反論できませんほんとすんません。

んで私個人の感想としては、それらは生々しく悲惨な事実であるのですが、リアリティがない。リアリティというのは禁句かもしれませんが、現実に引き付けて、自分の身になって思考することができないというようなことです。
ちなみに戦争映画とかで血が吹き出したりカメラワークが妙にぐらついたり画面に土がついたりして臨場感があったり、銃弾とかがチュンチュン飛んでくるシーンなんかは漠然とリアルだなーとか思うときはありますが、このリアルはどうでもいいリアルのほうです(なんじゃそりゃ)。いや実際の現場の想定の手助けにはなるかもしれないけれど、想像力の話とは違うかなと。


もう一つ、人間は、限界状況よりも、理想状況のほうがずっと想像しやすく、またそうする傾向のある生き物だということです。これは人間の本性的な部分です。絶えず「戦争」や「死ぬこと」について考えるよりも、ずっと自分の好きなことを考えるほうが自然であり、なおかつ人は「死」などの限界状況について考えるのを回避したり頭の隅に追いやったり誤魔化そうとします。哲学者をのぞけば多くの人々がそうだと思います。kanonへの共感は理想状況でもすこし説明がつくかと思います。
既述に関連した話として、我々は戦争に近似の体験をしていません。誰かに命を狙われたり、緊急避難や正当防衛が成立するような状況にたった人は別として、そういった経験を日常どころか一度も経験したことがない人が大部分ではないでしょうか。
背嚢を背負ったりヘルメットを被ったりなんかは、小学校のときにランドセルを背負って1時間通って学校に行ったり、中学校の通学でヘルメ被ったりなんかするわけで、外形的には本当になんとなくですが似ています。でも決定的に違うのは、その状況です。通学は戦争ではありません。確かに事故死する可能性や事件に巻き込まれる可能性が0とはいいませんが、戦争の、乃至それと近似の状況とは全く違います。

銃を突きつけられたり、銃を突きつけたりする現場は、客観的には想定することができるでしょう。ですが、そんなことはあまり問題ではなく、そのような限界状況に当事者として立たされたとき、我々がどう思考し、どんな判断を下し、いかなる行動をするのかが、全く想像できないのが問題なのです(私だけかもしれませんけれど)。

私が敵に対して引き金を引くのを想定したとき、私は何を思って引くのでしょうか。とまどいながらでしょうか。懺悔しながらでしょうか。それとも何も考えまいと努めているでしょうか。或いは、殺すことが快楽になるよう暗示を受けているのか、もしくはそう自分に言い聞かせながらでしょうか。
もしかしたら、隙を見て逃げようとしたり、自棄になって取り返しのつかないことをしたりするかもしれません。そうした状況に置かれた時、自分がはどんな思考をするのか見当もつかないのです。


話がずれます。
結局私もこうの史代さんを引き合いに出すわけですが、『この世界の片隅に』を読んで、私の心は揺さぶられました。彼女の漫画に登場する人々は、あまりにも生き生きとしていました。その漫画の世界には、私なりのリアリティが存在していました。つまり、共感や感情移入ができる、私にとって想像可能な世界が広がっていたのです。広げてくれていた、といったほうが適切かもしれませんが。
そして、その世界の中には、原子爆弾が描写されていました。

だから、私にとって衝撃だったのです。

あの原子爆弾の描写が、私にとって想像可能な世界を生み出すものの内に含まれていたということが、それが、どんなに大切なことでしょうか。

先ほど「生々しく悲惨」ではあるがリアリティがないといったのは、自分でもよく分かりませんが、そういうことなんだと解釈しています。人間が「そこ」に映っているのにリアリティがないとは何事だと、自分でもそう思います。でもあのときは、悲惨な過去の事実、けれど、私の世界とは疎遠でつかみどころのない事実だと捉えられました。
ところが、あの漫画の中で原子爆弾が描写され、戦争に対する心情が吐露されたとき、私は間違いなく共感していたのです。

若い世代では日中戦争も三国志と同じ感覚なのだろうか?


という言葉がありましたが、私にとっては同じだったかもしれません。

私はこれまで、戦争による死や貧しさが、そのままそこに暮らす人々の人生の不幸せを決定すると頭ごなしに決めつけていた節があります。ですが、あの漫画を読んで、そういった感覚はずれているかなと思いました。
その感覚は幾らもあって、歴史で中世の農民たちが役人に虐げられていたなどと聞けば、それだけで彼らの人生はみんな暗く辛いものだと、不幸せなものだったと想定していました。
ですが、そうではないのかもしれないのです。
それは原子爆弾の投下による被害に遭った方々にも当てはまるのではないかと感じます。
原子爆弾が炸裂した瞬間、彼らの人生が全て不幸せだったことになるのでしょうか。
私は、そんなことを疑問にさえしませんでした。彼らは、悲しまれる存在であり、不幸な人々であったと、ただ、本当に単純にそう思っていました。
当時の人々の日常には戦争が影を落としていました。それは間違いではないと思います。ですが、だから彼らの日常は闇に包まれており不幸であったかと、彼らは未来永劫ただ悲しまれ続けるだけの存在かと言われれば、違う、と今の私は答えるでしょう。

三国時代には、農民の多くが流民化し、各国において戸籍の数の減少がひどい時代でした。それは飢饉や絶えない戦争が原因で発生したのだろうと思います。
だからといって、あの時代を必死に生きようとする彼らを、全て不幸な存在だったと個人的に決めつけるわけにもいかなくなったということでもあります。その点でいえば、私にとって日中戦争も三国時代も同じになってしまうといえるのかもしれないのです。

結局、自分が何を言いたいのかがまとまりません。
今一度資料館に行ってみて、そこに映っている彼らを、生々しくも生き生きとした姿として私が捉えられるかといえば際どいところでしょう。
ですが、これまで戦争で死んでいった数多の人々が、無数の人生を実際に歩んでいたことを、それこそ私の日常のように便所にたったり居間でくつろいだり、早起きして朝日を浴びたり、家族との団欒を過ごしたり、布団にくるまって寝息をたてたりしていたことを、そのような日常を通して彼らがどんな想いを抱きながら日々過ごしていたのかを、どのような時代であれ想像せずにはいられないのです。

| 雑記 | CM 0│ 2009. 06. 10(Wed) 02: 10 |

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